藤倉大が参加したデヴィッド シルヴィアンのアルバム、「died in the wool」についてのインタビュー


●デイヴィッドの作品とどのように出会ったのか教えてください。

僕は彼の音楽を聴いて育ったんです。1977年生まれだからちょっとおかしいでしょう。最初に聴いたアルバムは『シークレッツ・オブ・ビーハイヴ』でした。当時、僕は13才くらいで、それまでポップ・ミュージックを聴いたことがありませんでした。いや、おそらくテレビで耳にしたことはあったかな? でも、買ったことはなかったし、クラシック以外の音楽に興味はありませんでした。5才の時からクラシックの音楽家だったんですから! 毎日練習して、宿題をして、塾に行って――塾というのは、僕の世代の子供の多くが通った“課外学校”みたいなものです。だから、自由に使える時間、他のジャンルの音楽を探求する時間なんて全然なかった。

『シークレッツ・オブ・ビーハイヴ』は、ご存知のとおり、クラシックの楽器編成で作られてますから、最初に聴いたときから、すぐに入り込めたんです。あのアルバムはこれまでに4枚も買ってますよ。人にあげるために。デイヴィッドは僕にビールを1パイント奢ってくれないと! でも、もちろん、彼の作品に魅かれた最大の理由は彼の声です。世界でいちばん美しい声。あの声が大好きなんです。あのすばらしい楽器編成を思いつく彼の耳もすごいと思う。たとえば、“Gone to Earth”にしてみても、最近人気があるグリッチ・エレクトロニカと較べても、そんなに古く感じられないどころか、もっと新鮮で、豊かでしょう。それで3年前、サウスバンク・センター(訳注2)に、デイヴィッドと会えないか、もしできればコラボレートできないかと尋ねてみたんです。僕がデイヴィッドを知っていたことに、またポップ界の音楽に興味を示したことに、そしてコラボレートを望んでいることに驚かれました。それまで、他のクリエーターとコラボレートしたことはなかったので。するとたまたま、デイヴィッドと彼の事務所が近いうちにサウスバンク・センターとミーティングを持つ予定だったんです! このミーティングで僕は彼と初めて会いました。それからは、すごい数のメールをやり取りしたり、ロンドンやニューヨークでいっしょに過ごしたりしています。

●彼の音楽のどんなところに魅かれて、コラボレーターとして連絡を取ろうとしたんですか?

とても簡単な答え、彼のファンタスティックな声です。あの声のために作曲したかった!

●どんなことを予想してましたか?

ここまで親しく“ドラマチックな”、友人であって、仕事仲間でもある関係は予想してなかったです! 有名なミュージシャンがよく、親しい友人がどうのこうのと喋って、実際はそんなに親しくなかったりしますよね。でも、デイヴィッドと僕に関しては(もちろん僕は有名じゃないけれど、彼は有名ですから)、ほんとに親しい友だちです。時には口ゲンカもしますけど、それこそ親友の証でしょう!

●これまでに歌と、またはシンガーと共作したことはありましたか(コンポーザーとして、パフォーマーとして、または高校の時にパンク・バンドのギタリストとして、等々)? これまでの経験が、このようなコラボレーションを予期させることはありましたか? それとも、“Five Lines”のような作品を共作することはまったく新しいシチュエーションでしたか?

クラシックの作曲家として、誰かとコラボレートしたことは一度もないです。コラボレートはしません。全部、すべての音符を自分だけで考え、演奏者が正確に演奏できるように、文章まで(楽譜を“めくる”箇所まで時には指示しますよ!)書きます。

それにクラシック音楽では、ヴォーカル・ラインは、ひとつの楽器というだけでしかないんです。ストリング・カルテットとヴォーカルの場合、ヴォーカルの存在はアンサンブルの5人目というだけでしかない。だから僕にとって、とても異なる体験です。

まず初めに、“Five Lines”のストリング・カルテットとヴォーカル・ライン(デイヴィッドの声を想像しながら)を僕が作曲して、これまでに何度も僕の曲を演奏しているインターナショナル・コンテンポラリー・アンサンブル(ICE)とストリングスのパートを録音しました。デイヴィッドはストリングスのパートは気に入ってくれましたが、ヴォーカルは違った。だから彼が新しくヴォーカル・ラインを考えて、リリックを書き、それを録音したんです。

彼が初めて新しいヴァージョンを聴かせてくれた時のことを覚えてます。聴かせる前に、僕が全然気に入らないかもしれない、音楽的にまるで駄目だと思うかもしれない、などなどと僕に言うので、僕は「カモン、さっさとかけなよ!」って。そしたらすごく良かった。僕が想像していたより、僕が最初に作ったヴォーカル・ラインより、ずっとばっちり合ってましたね。

これはほんとうにユニークなコラボレーションだ、と思いました。僕は僕で、自分のコンサートのための曲を作曲するように仕事をし、そして何度も共演しているコンテンポラリー・アンサンブルがいて、そこにデイヴィッドも彼の曲を作って足して、それが全部うまく行く……。“僕たち”はみな自然に出会ったんです。

僕らがどちらもポップ・ミュージシャンだったらここまでユニークではなかったかもしれませんね。でも、僕らは音楽の世界のいわば両極の出身で、そこに暮らしている。だからこれはあらゆる意味でのコラボレーションであり、衝突(ルビ:コリージョン)ではないんです。

●コンポーザーがポップ・シンガーのために曲をオーケストラ編成に仕立てる例はたくさんありますが、あなたたちは何か違うことを試みているんですね……。デイヴィッドは伝統的な歌の形態から離れて行こうとしているし、あなたは単にヴォーカル・ラインを飾り立てようとしているんじゃなくて……。

絶対そんなことしませんよ! デイヴィッドのヴォーカルの邪魔をしたいんです(半分冗談です)。もちろん愛情をこめて!

いや実際、僕は彼のオーケストレーターではありません。さきほど言ったように、クラシック音楽では、ヴォーカルと楽器のパートを分けないんです。ですから僕の立場からすると、デイヴィッドとの共作を、ただバックのサウンド/ミュージックをアレンジするという風に扱ったことはないです。僕にとって、片手間の仕事というのとは全然違いますし。

●“The Last Days of December”がすばらしい例ですね。よりトラディショナルなメロディに対するドローンをベースとした楽曲はとても魅惑的です。お互いを讃えあっているけれど、それがはっきり表には出てなくて。あの曲が出来た過程を少し教えてもらえませんか?

あの曲に関しては、“Five Lines”での経験を踏まえて、デイヴィッドに材料(ルビ:マテリアル)、つまりとても変わった方法で演奏された一連のシンプルなコードを提供して、ヴォーカル・ラインは書かない方がいいと思ったんです。そっちは彼の仕事ですから! でも、彼が取捨選択して望み通りのトラックを作れるように、“必要な材料(ルビ:マテリアル)”以上の素材を提供すべきだとは考えました。

“シンプルなコード”と言いましたが、そのコードはバス・フルートの重音(ルビ:マルチフォニックス)を録ったものです。僕はインプロヴァイザーではありませんから、自分の楽曲で重音奏法(ルビ:マルチフォニクス)を使うときは、固有のピッチの正確な重音(ルビ:マルチフォニックス)が欲しいんです。その重音(ルビ:マルチフォニックス)を出すために、楽器の運指(ルビ:フィンガリング)さえ指定します。だからバス・フルートの重音(ルビ:マルチフォニックス)が出す固有のピッチはあらかじめわかっています。そこで、そこからストリングスのハーモニーを展開させるわけです。ストリングスはコードを持続しつつ、なめらかな演奏から駒の際(ルビ:きわ)(モルト・スル・ポンティチェッロ)(訳注3)までと、徐々にダイナミクスと音色を変えていく。加圧のレベルを上げていくように聴こえますが、それを楽器でやっているわけです。

ICEは現代音楽を専門にしているので、この手の高度なテクニックを使った演奏にとりわけ優れています。普通のスタジオ・ミュージシャンに、このようなテクニックは期待できないでしょう。

●“Died in the Wool”のベースとなったクラリネットのサンプルについて教えてもらえませんか?

ドイツのフライブルグの実験的スタジオで、ドナウエッシンゲン音楽祭2009(訳注4)のために、「ファントム・スプリンター」という新曲の作業をしていたところだったんです。友人のクラリネット奏者の重音奏法(ルビ:マルチフォニックス)を録音していました。その作品のために、おもしろいライヴ・エレクトロニクスの断片が作り出せないかと考えて、そのサウンドで実験中でした。この実験の中から、短いMP3ファイルをデイヴィッドに送ったんです。(単にその日の実験のひとつで、その部分は結局「ファントム・スプリンター」には使用しませんでした。)デイヴィッドはそれをとても気に入ってくれて、それをもとに歌を作りたいと言ったので、帰宅後にこの素材(ルビ:マテリアル)をもとに一から作曲し直して、彼に送りました(デイヴィッドはさらに気に入ってくれました)。

彼がこのトラックを大きな何かに発展させたんです。僕が最初に作った小さな種からです。彼がそこから作り出したものに僕は感動してます。

ご想像に難くないと思いますが、デイヴィッドと僕はほとんど毎日メールをやり取りしています(時には1日6回も)。映画から日々の暮らしまで、僕たちはなんでも話題にしてます。ですから、そのMP3を送ったのも、特に何かして欲しいという訳ではなくて、単に南ドイツから「調子はどう?」みたいな絵はがきを送る感覚でした。

●『マナフォン』の曲も、ずいぶん時間をかけてリミックスしたようですが、それぞれの作品にどのようにアプローチしましたか?

(デイヴィッドと僕が共作を始めたとき)『マナフォン』のアルバムの曲のストリングスのパートを部分的に作曲するように依頼されました。それで僕が作曲したストリングスのパートを録音したのが、“Random Acts of Senseless Violence”、“Five Lines”他の作品です。

デイヴィッドは録音したものを家へ持って帰ってひと月後に、(『マナフォン』のアルバムのための)ストリングスがうまくはまらないので、僕が仕事をした部分を削除する必要があると連絡がありました。僕は誰かとコラボレートするのが初めてだった訳ですから、これはショックでした。自分が作曲したところを削除されたことなど一度もないですからね。

それから2、3ヶ月経ちましたが、どういう風にパートがうまくはまらなかったのか僕にはよくわからない。そこで、「僕が(ミックスを)やってみてもいいかな?」と尋ねました。彼はとても寛大で、僕にProToolsのセッションをまるごと渡してくれました。で、僕は自分のストリングスのパートをリミックスし始めたんです。ですから、基本的に僕は自分のために、リリースのためじゃなくて、自分のリヴィング・ルームで聴くために、リミックスしたという感じです。

そして、仮ミックスを彼に送ると、「よくやったね、うまくはまったよ!」というメールが来ました〔心の中ではこう思いましたよ。「はまらないわけないよ! はまるように作ったんだから!」(笑)〕。それでも、ストリングスのパートは、個々のトラックでは良くても、『マナフォン』のアルバム全体の感じにはうまくはまってないとデイヴィッドは思ったんじゃないかと考えてます。だから(“Random Acts of Senseless Violence”は)日本でのみ、ボーナス・トラックとしてのリリースだったんです。

たくさんの人が僕のミックスがいいと言ってくれました。アルバム1枚全部を僕のミックスで聴きたいという人たちもいました。それをデイヴィッドに伝えると、彼もそのアイデアを気に入ってくれて、それで他のトラックにもいっしょに手を加え始めたんです。

●あなたの回答や、作曲家という職業の性質を考えると、あなたこそまさに、彼が曲に何を求めているかをわかっている人だと感じますが、デイヴィッドの方でもそうなんでしょうね。

ええ、そうですね。が、僕とはかなり違う風に、です。クラシックの作曲家は、ひとつひとつの音を耳にする以前に、全部を書き下ろさなきゃならないんです。だから僕はサウンドを実際に聴く前に、セッションの中で僕が望んでいるであろうことを正確にわかってなきゃならない。デイヴィッドの方は耳にした瞬間に、欲しくないものははっきりわかる。高機能のフィルターみたいに、どんなプロジェクトにあたっていても、望まないものは、自分ではっきりわかっているんです。これは純粋に、彼といっしょに作業しているときに僕が感じていることですが(彼はそんなことないと言うかもしれません)。

●これらの作品を共に作り、意見の一致を見たことは、あなたにとってチャレンジでしたか?

最大のチャレンジは、どうやって僕が彼のトラックのために作曲した音楽を「聴かせる」か、でした。彼は楽譜を読めないので、書いた楽譜をただ渡すというわけには行かないから。それってたぶん、ポップ界では普通のことなんでしょうけど、僕にとってはかなりのチャレンジでしたね。全く使えないものを録音するのは無駄でしょう? 結局は彼のアルバムなんですから。

DAVID SYLVIAN

●今回のアルバムにも、『マネー・フォー・オール』や『ブレミッシュ』のリミックス盤のように、たくさんのコラボレーターを招くこともできたかと思うのですが、主に大(藤倉大。以降、「大」)、ヤン、エリックを人選することにより『マナフォン』の続編とも思える作品を制作されましたね。あなたの他のリミックス・アルバムに較べて、あなた自身の作品に近いと考えていいのでしょうか?そのことについてどうお考えでしょう?

『マナフォン』のリミックスを作る考えは僕には全くなかった。『ブレミッシュ』に較べると、『マナフォン』を作るのは感情面ではるかに疲れることだったと言うと驚く人もいるかもしれない。完成した後に、また曲に向かう気持ちは残っていなかったし、『オンリー・ドーター~ブレミッシュ・リミキシーズ』の時と同じアプローチがうまく作用するとは思えなかった。『ダイド・イン・ザ・ウール』は漸進的(ルビ:インクレメンタル)に出現した。『マナフォン』の制作中に、車輪は意図せずに動き始めていたんだ。大にはすでにロンドンで会って、いっしょに何か作りたいという意欲を聞いていた。僕たちはメールを通じて、将来実現するかもしれないプロジェクトについての綿密な対話を続けていて、ある時点で、ふたりの話がはたして噛みあっているのかどうかを、確かめてみようと思った。

僕は大に『マナフォン』の曲を数曲送ってオーケストレーションを依頼した。彼は、『ブレミッシュ』のような過去の曲をミックスしたいと強く望んでいたので、そこからスタートするのがいいだろうと感じたから。大は僕のために新曲も2曲作っていた。僕たちはニューヨークでICEのメンバーたちとのセッションを持った。セッションはうまく行ったけれど、後でオーケストレーションが『マナフォン』の多く部分に流れるミニマルな美学にそぐわないと感じるようになって、使わなかった。ふたつのオリジナル曲については、1曲だけを進展させたのが、のちに“Five Lines”へと進化し、『スリープウォーカーズ』のコンピレーションに収められている。

一方で、大は“Random Acts of Senceless Violence”を、自分のオーケストレーションで当初の自分の意向の通りにリミックスしたいと言っていた。それが仕上がると、同じようなことをもっとやりたいという意欲を見せた。特に断る理由もなかったので、『マナフォン』が出来上がると、アルバムの曲全部をマルチトラック・ファイルで彼に送った。僕たちはニューヨークでICEとともに二度目のセッションを持ち、『マナフォン』の曲の多くと、後に“The Last Days of December”となる大のオリジナル曲を録音した。その一方で、僕は重音奏法(ルビ:マルチフォニクス)のクラリネットのサンプルで構成される大が提案したトラックにも着手していて、そこにキース・ロウ、ジョン・ブッチャー、エディ・プレヴォスト等の演奏を含む他の様々なセッションで録音されたサンプルを加えていた。これが後に“Died in the Wool”になった。

それまでに音をもらっていたクリスチャン・フェネスにインスパイアされて、エミリー・ディキンソンの詩をもとにした一連の歌も作っているところだった。大は『マナフォン』の全曲に手をつけてはいなかったので、彼が残していた曲を、ヤン・バングなら一体どうするかと、ヤンに送ってみることにした。ヤンと僕はここ数年、連絡を密に取り合っていたし、彼のリミックス(彼とエリックは過去に僕のためにすばらしいリミックスをしてくれている)に対する一般的なアプローチ、そしてテクスチャーに対する繊細で印象派的な方法、さらに驚異的に巧みなサンプリングの技術が、いくつかの曲にうまく作用するんじゃないかと感じていた。僕たちは数ヶ月前からクリスチャンと僕がいっしょに取り組んでいたディキンソンの詩、“I Should Not Dare”のトラックから取りかかった。ヤンは僕たちのアレンジに美しいオーケストラの要素を少し加えた。それからふたつめの詩、最後に『マナフォン』からの数曲に取りかかった。ヤンがエリックを巻き込んでからは、いろんなことがとても素早く、あるべき場所に落ち着くようだった。ファイナル・ミックスを完成させたのは僕だけど、ヤンとエリックと大は僕にかなり完成された形態で作品を提示してくれたから、新曲をのぞいては、ファイナル・ミックスは多かれ少なかれ、自ずから出来上がったようなものだった。

さきほど述べたように、リミックス・アルバムを作成することは僕の意向ではなかったし、出来上がった『ダイド・イン・ザ・ウール』がそうなのかどうかもよくわからない。少なくとも伝統的な意味では違う。だから“ヴァリエーション”というタームを使った。これらの曲はあるテーマの進展、またはヴァリエーションのように思えるから……、もとの曲に全面的に共感しつつ、同時に反発しているような。それは『マナフォン』の制作過程で、インプロヴィゼーションのオリジナル・スピリットに対して僕が行った作業の姿勢と同じもので、それが作品のボディと触媒となった。

●“The Last Days of December”についてもう少し教えてください。あなたと大はどうやってこの曲を作り出したのですか?

将来的に実現するかもしれない音楽の方向について、頻繁にやりとりしている間、僕たちはクラシックとポピュラー・ミュージックの両方における、ドローンとその位置づけ、そして僕自身の作品の中でのその一貫した在り様についてを話し合っていた。大は、その時も、この先も、ドローンのルートをシフトすることに興味を持っている。ルートを幾分曖昧にしようとすることで、ヴォーカル・メロディをある意味解放できるように。タイトル・トラックの何ヶ所かで、それを聴くことができる。ともかく、ドローンは進行中の話題のひとつだったので、大はニューヨークでの2回目のセッションでこの性質のことを何かやろうとしていた。曲のほぼ全体にわたる重音奏法(ルビ:マルチフォニクス)のバス・フルートが、不穏なハーモニーの要素を作品に加えていて、そこに醸し出される音の密度をなんとか抜け出そうとしているようなヴォーカル・ラインに執拗に絡みつく。リリック自体も、自身の亡霊にとり憑かれるという、このことを反映している。

●“Anomaly at Taw Head”は『マナフォン』のアウトテイクですね。この曲の制作過程について教えてください。

この曲は、『マナフォン』を制作していたのと同じ時期に僕が作った。ただ、一回のセッションからセレクトするというより、互いに関連のない構成部分によって全体が組み立てられている。ミュージシャンはひとりも、実際にはいっしょに演奏していないし(1度か2度、サックスとチェロがぶつかる箇所を例外として)、ひとりが別のミュージシャンに反応して演奏しているということもない。カット・アンド・ペーストで作られた作品の一例だ。そのこと自体は、僕に関しては少しも珍しいことではないけれど、『マナフォン』のスピリットとは相容れなかったので、アルバムには入れなかった。大が後にストリングスのアレンジを加えたことで、各要素が多少はひとつにまとまった。

●“When We Return You Won't Recognize Us”の背景についてお話しされていたことがありますが、なぜ今回CDに入れてリリースしようと思われたのですか?

結局、この作品は今回のアルバムに属しているように感じたから。作品を生み出すプロセスは『マナフォン』のセッションそのものから示唆されていたけれど、インスタレーションのコンテクストに関してと、特有のサウンドについて言及した背後にあるコンセプトの両方を文章で記したこと、さらに、大にストリング・セクステットを“インプロヴァイズ”してもらうことで、さらに進化させた。“インプロヴァイズ”は、セッションに先駆けて、あらかじめ一連のコードを取り決めておいた上で、大の手の動きによって、どの瞬間に、どの組み合わせで音を出すかを指示することで調整した。全部で5テイクを録音したと思う。どれも、毎回、全然違うテイクになった。テイクがうまく行けばそのたびに、アンサンブルと話はしたけれど、ある結果を求めてのことではない――そんなことは不可能だし、このセッションのテーマを否定してしまうことになるから。より限定され、音色やダイナミクスの面でより明確な、探索のフィールドへと導くためにだ。

その日に5テイク録ったと思う。4回目のテイクで、すべてが収まるべきところに収まった。ミキシングの段階でかなりエディットはしたものの、インプロヴィゼーションが行われた時点の形態(ルビ:フォーム)を少しも損なってはいない。

●ステレオCDでインスタレーション作品をリリースするという試みについてはどうお考えになりましたか?

インスタレーションのためにオーディオ・セットアップされた5.1サラウンドの空間から、ステレオへと関心が移っていたところだった。楽曲はどちらで再生されても問題ないはずだったが、ステレオという限界で、あの大きさの感覚を維持するのが問題だった。僕はずっとステレオの領域で作品を作って来たので、特に難しい移行ではなかったけれど、その調整をしているうちに、さらに作品をエディットする好機を得た。主に作品の自然なダイナミクスやサウンド・デザインの入り組んだディテールに訴えるものをわずかに付け加えるために、以前のテイクから他の要素を導入することで改良した。

今は、ノルウェー、クリスチャンサンのプンクト・フェスティヴァル2011での展覧会のために、作品全体を新しくリミックスし直しているところだ。インスタレーションは、新たに福井篤の参加でヴィジュアルの要素を加え、個々のミュージシャンや詩人、作家が、インスタレーションのオーディオ要素とインタラクティヴにライヴ・パフォーマンスできる展示となる予定だ。

●あなたはコンテンポラリー・ミュージックの、より純化したスタイルを選んで来られたわけですが、何のために音楽を聴いているのでしょうか?そしてどのような進化を望んでいますか? 以前よりご自分がさらにディテール指向になったと感じますか?

この8年ほどの間に、これほど濃密にエモーショナルな性質の作品は出していないと思う。純粋に知的(ルビ:インテレクチュアル)な立場で、作品を作ったことは一度もない。僕を導くのは直感と感情、だから曲の中で聞こえるすべての要素は、その作品のほんとうの情緒を担うものだ。伝統的な音楽要素によく見られる、苦い錠剤を甘くするという方法を使わず、他の方法でその絵を肉付けしていく。クリスチャン(・フェネス)は、自分の作品がエモーショナルだと、センチメンタルでさえあるとオープンに話している。それが、このコンテンポラリーな濾過装置(ルビ:フィルタリング・システム)で彼のテイクを使うことに僕が魅かれる理由のひとつでもある。彼は音楽に対するアプローチにおいて、純粋に理性的な場所から来てはいない。衝動は、必要性、心、感情の繋がりから生まれるのだ。

土や泥、埃を自分の絵に投げつけるアンゼルム・キーファーの作品とのアナロジーは可能かもしれない。物質的な、想起的な、そして意味のレイヤーを重ねることで、作品に距離(エモーショナルな、でも時には、思い出や記憶といった)という負荷を与え、あえて美しさを取り除き、感傷を排除するプロセスだ。ある意味、イメージの純粋さを遮り、劣化させる行為だけれど、想起させる力はそれで増して行く。ちょうど忘れ去られた写真が時とともに黄色く色褪せていって、時を超えて、意味を生じるみたいに。視覚的なインフォメーションの不在や空白のせいで、知覚や記憶の力とのよりパーソナルなダイアログへと導いてくれるように。

以前に較べてさらにディテール指向になったとは思わない。ディテールには執着とも言える関心をずっと持ち続けている。ただ、音のパレットは前より多少は大きくなった。多様なメディアの、いろいろなジェネレーションのコンポーザーたちは互いに多様な影響を与え合う。ジャンルを超えた交流はとても健全なものだ。

何年もの間、若い頃にさかのぼっても、自分の音楽的環境として、源泉として、環境音楽やピュア・ノイズを聴いてきた。これらの要素は過去の作品のサウンド・デザインに、あるかなきかの程度ではあっても導入され、いつもそこにあるものだった。『ブリリアント・トゥリーズ』と『プライト&プレモニション』に耳を傾ければ、確認できるだろう。しかし、僕たちは進化とともに、特定の文化の荷物や団体に束縛されず、これまでになく想起的な要素の探求に乗り出した。それは、思いのままに形を変えようと試みて、僕らが言語の根を引き抜くごとく、パーソナルなヴォキャブラリーのようなものをに加えようとし始めている。時代は移ろう。現代のカルチャーでいったい何が真の普遍性を失い、何が残るのかを、僕たちは認識し、理解する必要がある。僕たちが失ったものに代わる力を持っているものはなんだろう? 純粋にポピュラーな作品についてではなく、疑う余地のないコンテンポラリーの声を持つ作品について、僕は語っている。

 

訳注
1)Moers Festival:ドイツ、メールスで1972年から毎年開催されている国際的なジャズ・フェスティヴァル
2)Southbank Centre:ロンドン、サウスバンクにある芸術関連複合施設 ロイヤル・フェスティヴァル・ホール、クイーン・エリザベス・ホール、ヘイワード・ギャラリーの3棟の建物で構成されているヨーロッパ最大規模の芸術施設
3)molto sul ponticello:“ponticello”はイタリア語で弦楽器の駒(ブリッジ)のこと。「モルト・スル・ポンティチェッロ」(「スル・ポンティチェッロ」の直訳は「駒の上」、「モルト」は「とても、非常に」)を表わすスル・ポンテ(sul ponte)は、演奏記号で駒ぎりぎりを弾く奏法のこと
4)Donaueschingen Musikstage 2009:ドナウエッシンゲン音楽祭。南ドイツの小さな町、ドナウエッシンゲンで開催される世界発の初演作品のみの現代音楽祭

翻訳:喜多村 純




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